Archive for the '日本語 (Japanese)' Category

ブログの一新と日本語版の立ち上げ


数少ない読者の皆様に喜ばしいお知らせがあります。

この度、ブログを一新しました。

以下にて説明するとおり、これはサイトを全体的に変更するだけでなく、日本人読者の体験を大幅に改善することを目的とした、大きな更新です。

【URLの変更】

当初からwordpress.comでホストされていたこのブログですが、この度独自のドメインであるwww.joesas.netに移行しました。

簡潔で簡単。URLアドレスが覚えやすくなったことで、皆様からのアクセスが増えることを期待しています。

【日本語版の立ち上げ】

皆様にとって最も重要な改善点になると思われるのは、ブログに日本語サポートが追加されたことです。

今までこのブログでは、英語のサイトに日本語の投稿を掲載するという形式を取っていました。コメントや購読、検索やカテゴリーに関する案内が全て英語という環境だったので、日本人の読者にとってはとても使い勝手が悪いサイトだったと思います。

この度の一新においては、サイトの日本語版を立ち上げることにより、言語に関連する諸問題をいっぺんに解消します。

まず最初に、ブログに日本語の名前を付けました。和文タイトルは「ボクに言わせてみれば ~ ジョー、無駄に語る」。英語のタイトル「The World According to Joe ~ Never Before Has One With So Little to Say Said So Much to So Few」にあるどうでもよさのニュアンスを日本語のタイトルにも残しました。

日本語版においては、環境が基本的に全て日本語となっています。以前は英語が分からない、英語はつらい、という理由からブログを敬遠していた方々には、これを機会にブログ全体を探検してみていただければと思います。いつもインターネットを閲覧されている際の言語設定が日本語であれば、自動的にブログも日本語版に飛ぶようになっています。

【和文投稿の分離】

サイトの日本語版の立ち上げに伴い、今までは混合していた日本語と英語の投稿を日本語版・英語版のサイトに分離しました。

これにより、日本語版には和文の投稿しか表示されないようになりましたので、英語が苦手な方は英語を目にせずともこのブログを楽しんでいただけるようになりました。

もっとも、サイトの日本語版と英語版は連携しています。したがって、投稿の英文が存在する場合、和文のページから「English」とあるリンクをアクセスしていただくだけで英文も閲覧できます。また、英文がある投稿とない投稿を容易に区別できるよう、日本語版しかない投稿には冒頭に「(日本語のみ)」と記載しています。

なお、このブログでは原則として、日本語・英語のどちらかのみで投稿するという形式を取っていますので、ほとんどの和文投稿には関連する英文がありません。ただ、英語版が存在する場合は、大抵、以前英文投稿で取り上げたトピックについて改めて日本語で書き直した、という経緯があります。したがって、英文は和文の「翻訳」ではなく、双方ともがオリジナルです。英語も堪能な方には、和文と英文を読み比べていただくのも面白いかと思います。

【その他機能の追加】

日本語対応の他にも、フェイスブック等のソーシャルメディアとの連携や投稿の評価をしやすくしたり、関連する投稿を提案するなどの機能を多数追加しました。是非お試しください。

【今後の予定】

「このブログについて」や「管理人について」等のページは引き続き英文しかなく、日本語サポートもまだまだ改善の余地があるので、今後も日本語コンテンツの充実に力を入れていきたいと考えています。

また、このブログについては、この度の一新よりさらに大きなプロジェクトを計画しています。ぜひご期待ください!

今後もよろしくお願いします。

僕は(米国)大学生になるために生まれてきた


僕は大学生になるために生まれてきたような人間である。

起床は11時。

服装はダボダボなポロシャツとカーゴパンツに野球の帽子。

食べることと遊ぶこと以外で期待されているのは、自分が興味を持っている課題のみの徹底追求。

評価基準は、どれほど自分の意見を口頭と文章で表現できるか。

ここまで読んでいただければお分かりのことかと思うが、これは日本の大学生生活の話ではない。

高校受験に受かるかさえ微妙な僕がそもそも大学入試を受けても合格するとは思えないが、いずれにせよ、性格的に日本の大学と肌が合うとは到底思えない。

日本の大学生活の話を聞くと、辛い高校生活の延長としか思えないのだ。

家族と住む家から通学し、毎日朝から夕方まで1日10個以上ある授業を受け、期末試験で試されるのは累積したはずの知識。

すべて僕が小学校入学から高校卒業までの12年間、苦手としていたことばかりだ。

米国での大学生活が僕に馴染んでいたのは、これらとすべて、おさらばできたからである。

米国大学生の毎日は寮生活なしには語れない。教師にも親にも監督されない、自由奔放な寮生活。

とにかく寮生活は楽しい。ルームメイトは一年生の時に親しくなった友達。時間つぶしには誰かが持ち込んだプレステ。食事は夜中まで空いている食堂で、娯楽は近所にある映画館で。

基本的に24時間キャンパスにいるので、毎日毎瞬ただ遊びほうけていても、さすがにいずれは学業に励みたくなる気持ちになるが、勉強さえも自由なのが米国の大学である。

もちろん必修科目という煩わしい概念も存在するが、一般教養、所謂リベラル・アーツの大学に通っていれば、そんな物は何とでもなる。

興味ある科目の、好きな教授が教えている、都合のいい時間に行われる授業を受ければいいのがリベラル・アーツ大学なので、嫌いな科目をしんどい朝から苦手な先生が長々と語る高校と比較すれば、学生としての義務とも言える学業も、(米国)大学生になれば天国である。

更に、米国大学での結果の出し方は僕のような人間に最も相性が合っている。発言力が重視される米国で大学生に期待されるのは、意見を主張し、表現することである。別に知識も思考も必要としない。正確な回答など導けなくとも、とにかく思いついたことを適当に表現していれば評価されるので、芸は口である僕にとって、これほど自分の特技に見合った環境もあるまい。

余談だが、さすがの米国のリベラル・アーツ大学でも、知識を累積することが求められる授業がある。科学や数学がその典型的な例だが、米国の大学の凄いのは、「科学が苦手な学生が必修科目を満たす為の科学授業」という学歴詐欺のような授業が存在することである。そんな授業を受けても当然科学に関する知識は一向に増えないため、小学時代からの僕の科学オンチは大学に通うことによって解消されることはなかった。

僕は社会人になってから大学・大学院時代を過ごしたボストンカレッジがあるボストン付近に戻っていない。それは、僕の、生涯を大学生のまま終わらすことが現社会ではダメ人間のレッテルを貼られることになるのを理解した上での、残りの人生に挑む覚悟の表れである。

ボストンを訪れてしまえば、即退職して学生に戻ってしまうのを分かっているから。

十五歳の僕への手紙


アンジェラ・アキの「手紙~拝啓 十五の君へ~」を聞いて思った。僕なら十五歳の自分にどんな手紙を書くだろう、と。

拝啓

この手紙を読んでいる君は、今どこで何をしているのだろう。

たぶん宿題に追われ、塾に通い、限られた残りの時間はテニスでもしているのだろう。

でも今の自分だから言えることがある。

十五の君がしなければいけないのは、学校や塾が中心の毎日を生きることだけではない、と。

もちろん、学校の勉強も重要だ。数年後に「踏襲」を「ろしゅう」と読んで恥をかかなくて済むように、今の君はもう少し国語の勉強をした方がいい。

それでも、少しは大人になった僕がまだまだ子供の君に伝えたいのは、人間、面白みが重要だ、ということ。

そして、面白みのある大人になれるように、今の君には好きなことを徹底してほしい。

実は君は既に恵まれている。同年代の友達と比べて君はだいぶ興味津々なのだ。そういう興味を徹底してみよう。

株が好きなのだから、成人になるのを待たずに貯金した小遣いすべてを株につぎこもう。

運動神経がないくせにスポーツが好きなのだから、スポーツをしなくても徹底できる方法を探ろう。

政治が好きなのだから、地元議員の事務所に寄って話を聞いてみよう。彼の仕事が面白いと思ったら、自分でやってみよう。君が被選挙権を得るのはたった3年後。

大人が「あそび」だと思うようなことでもいい。ドラクエが好きなのだから、シリーズ全作をクリアして、そのあとFFとテイルズを制覇して、3大RPGを徹底的に分析してみるのもいいかも。ストーリー性や登場人物の面白味が重要という面でRPGは映画のようだけど、ITも関連している。RPG制作の世界は奥が深そうで、いくらでも深掘りできそうだ。

学校や塾以外の事に大半の時間を費やし始めたら、両親は間違いなく反対するだろう。「少しぐらい勉強をしなさい」とかなんとか言いそうだ。でも、あの人たちの反対を押し切ってやりたいことを貫く強さも今の君には必要だ。

親というのは子供には常に安全の道を進めさせたがるもの。いい成績を取って、一流大学を卒業して、大企業に就職して、高級取りになる、というのが親の子供に対する「夢」だ。無事な人生を送るのも重要だろうけど、石橋も叩きすぎると崩壊する。橋を渡らなくては、向こう側にある面白い世界が見られない。

そう、ぼくが君にやってほしいのは、学校という小さな世界から抜け出した「挑戦」だ。

「挑戦」には失敗や挫折が必ず伴う。株の投資に失敗するかもしれない。政治には向いていないと気付くかもしれない。芸術的な才能もプログラムの能力もないことを悟るかもしれない。

でも、壁にぶつかることは悪いことではない。失敗したからこそ新しく見えてくることがある。成功は気持ちがいいかもしれないけど、教訓にはならない。

15歳の君は「失敗したら」なんて心配する年齢ではない。

苦労すればするほど為になる年齢だ。

良くも悪くも、楽しめる映画は記憶に残る映画


僕は今まで600~700本の映画を観たことがあるが、これだけ観てようやく気付いたことがある。

それは、ほとんどの映画は平凡、ということだ。

これは必ずしも悪いことではない。

当たり前のことだが、悪い映画を製作しようと思うプロはいない。映画の製作に携わっている誰しもが、良い映画を作ろう、楽しんでもらえる映画にしよう、という目標を持って頑張るので、ほとんどの映画は「平凡」の水準に達する。

反対に、映画を作るということは通常思われている以上に大変なので、作品が平凡のレベルを超えることはほとんどない。

だからこそ、「記憶に残る映画」とは良くも悪くも稀な体験である。

記憶に残る名作、いわゆる「傑作」とは、他人に勧める映画で、かつ何年経った後でも再度観たくなるような映画だと思っている。他人に対しては貴重な時間とお金を費やしてまで観ることを勧め、自身に関しては既に観ているのに更なる時間をそそごうと思える作品は、数年に1本の頻度でしか現れない。

どうして「傑作」がそこまで稀になるのかをよく示しているのが「64(ロクヨン)」だ。

横山秀夫の小説を原作とし、佐藤浩市が出演、瀬々敬久が監督したこの映画は、邦画が豊作だった昨年、僕の年間Top 5にランクインしたほど良くできていた映画だった。ただ、この映画の惜しかったのが、後篇の転機となる肝心なところで重要な場面が唐突に現れるという大きな編集の過ちを犯していたことだ。

この失敗は、前編・後編をわたる240分のうちたった数分間を占めるものであった。この一瞬を観て改めて感じたのは、映画製作とはなんと難しいのだろう、ということだ。

良い映画を観た人が口にする感想は大抵「さすが~監督とか」とか「~の演技が良かった」だが、映画を成功させるためには俳優や監督が優れているだけでは不十分だ。映画には脚本や音楽、セットや衣装、撮影や編集も欠かせない。これらすべてが優れて初めて「傑作」ができあがるが、それはまるで、空中に投げたバラバラのパズルが床に落ちた時にははまっているというくらいありえないことで、だからこそ僕は、傑作に巡り会うと魔法を体験しているような気分になる。

もちろん、傑作があればその正反対の駄作もあり、後者の鑑賞もそれなりに楽しめるものだ。何しろ駄作とは、映画製作に携わった人すべての「良い映画を作ろう」という思いと努力が水の泡となってしまった悲劇の産物なのだから。

昨年楽しめた駄作といえば「クリーピー 偽りの隣人」だろうか。これは「不作は最初の15分で決まる」という僕の持論を立証するような作品だった。全然怖くない場面で「これから怖いことが起こる」BGMが流れたあたりで「傑作」には遠く及ばない映画であることを理解した。もっとも、その程度の欠陥しかないのであれば「平凡な映画」で終わったのだが、この映画、話が進めば進むほど馬鹿らしい展開になり、救いようのない脚本を懸命に演じる哀れな香川照之を観ながら、これは見物だ、と楽しめてきた。

駄作を見ることを好む人は少ないかもしれないが、僕は平凡な映画を見るよりはずっとマシだと考えている。映画鑑賞とは結構高い娯楽だ。たった2時間程度のために2000円近く払うのだから、忘れてしまうような体験が実は一番もったいない。駄作の鑑賞は2000円で買った一生忘れられない体験と考えれば、駄作にもそれなりの価値を見いだせるのではないだろうか。

教師にあらずんば「先生」にあらず


「先生」という敬称の使い方についてふと疑問に思ったことはないだろうか。誰も彼もが「先生」と呼ばれているこのご時世、一体「先生」と「さん」の境界がどこにあるのか、ということを。

僕は「先生」の使い方は二種類あると思っている。

ひとつ目が「教える人」に対して使う場合だ。

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実は僕は(ほぼいつも)落ち着いている


僕はだいぶ感情的である。

少なくとも周囲にはそう思われている。

それがどでかい声のせいなのか、大げさな身振り手振りのせいなのか分からないが、最近になってやっと、僕の実際の情動状態と他人が受ける印象にギャップがあることを自覚し始めた。

このギャップの背景には性格があるようだ。僕は性格的に何に関しても意見を持ち、その意見を面白おかしく皮肉的に語るのが好きなだけなのだが、他人からは、僕は極端な意見を持っている上に自分とは異なる意見を一笑に付しているように見えるらしい。そのせいか、述べる意見が強ければ強いほど、話している時に興奮していると思われやすい。

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2016年は「Change」の年でした


以下は今年のクリスマスカードに同封した手紙です。For an English version of the below letter which I enclosed in this year’s Christmas cards, please see here.

今年も残すところわずかばかりとなりましたが、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

さて、私の2016年のテーマは確実に「change」でした。

今年の5月、私は7年半勤めた法律事務所を辞め、アマゾンジャパンに転職しました。法律事務所からIT企業法務部への移籍。そしてそれに伴う引越し。これらにより、私の日常生活と生活のリズムは大きく改善されました。また、10月には祖母が92歳で亡くなり親族を一人失った一方で、まだ米国に住んでいた母と妹がこの度帰国することとなり、近くに住む家族が二人増えます。

色々あった一年をこうして振り返ることで頭に浮かぶのは、「All good things must come to an end」という英語の表現です。これは「すべてのいいことには終わりがある」という意味ですが、今年は「終わり」と「その後に来るもの」をたくさん経験し、多くを学びました。

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