Archive for the 'Thoughts and Musings' Category

僕は(米国)大学生になるために生まれてきた


僕は大学生になるために生まれてきたような人間である。

起床は11時。

服装はダボダボなポロシャツとカーゴパンツに野球の帽子。

食べることと遊ぶこと以外で期待されているのは、自分が興味を持っている課題のみの徹底追求。

評価基準は、どれほど自分の意見を口頭と文章で表現できるか。

ここまで読んでいただければお分かりのことかと思うが、これは日本の大学生生活の話ではない。

高校受験に受かるかさえ微妙な僕がそもそも大学入試を受けても合格するとは思えないが、いずれにせよ、性格的に日本の大学と肌が合うとは到底思えない。

日本の大学生活の話を聞くと、辛い高校生活の延長としか思えないのだ。

家族と住む家から通学し、毎日朝から夕方まで1日10個以上ある授業を受け、期末試験で試されるのは累積したはずの知識。

すべて僕が小学校入学から高校卒業までの12年間、苦手としていたことばかりだ。

米国での大学生活が僕に馴染んでいたのは、これらとすべて、おさらばできたからである。

米国大学生の毎日は寮生活なしには語れない。教師にも親にも監督されない、自由奔放な寮生活。

とにかく寮生活は楽しい。ルームメイトは一年生の時に親しくなった友達。時間つぶしには誰かが持ち込んだプレステ。食事は夜中まで空いている食堂で、娯楽は近所にある映画館で。

基本的に24時間キャンパスにいるので、毎日毎瞬ただ遊びほうけていても、さすがにいずれは学業に励みたくなる気持ちになるが、勉強さえも自由なのが米国の大学である。

もちろん必修科目という煩わしい概念も存在するが、一般教養、所謂リベラル・アーツの大学に通っていれば、そんな物は何とでもなる。

興味ある科目の、好きな教授が教えている、都合のいい時間に行われる授業を受ければいいのがリベラル・アーツ大学なので、嫌いな科目をしんどい朝から苦手な先生が長々と語る高校と比較すれば、学生としての義務とも言える学業も、(米国)大学生になれば天国である。

更に、米国大学での結果の出し方は僕のような人間に最も相性が合っている。発言力が重視される米国で大学生に期待されるのは、意見を主張し、表現することである。別に知識も思考も必要としない。正確な回答など導けなくとも、とにかく思いついたことを適当に表現していれば評価されるので、芸は口である僕にとって、これほど自分の特技に見合った環境もあるまい。

余談だが、さすがの米国のリベラル・アーツ大学でも、知識を累積することが求められる授業がある。科学や数学がその典型的な例だが、米国の大学の凄いのは、「科学が苦手な学生が必修科目を満たす為の科学授業」という学歴詐欺のような授業が存在することである。そんな授業を受けても当然科学に関する知識は一向に増えないため、小学時代からの僕の科学オンチは大学に通うことによって解消されることはなかった。

僕は社会人になってから大学・大学院時代を過ごしたボストンカレッジがあるボストン付近に戻っていない。それは、僕の、生涯を大学生のまま終わらすことが現社会ではダメ人間のレッテルを貼られることになるのを理解した上での、残りの人生に挑む覚悟の表れである。

ボストンを訪れてしまえば、即退職して学生に戻ってしまうのを分かっているから。

日常の三不思議〜ラーメン屋の混み具合、日比谷線の延長、そしてスカウトされない僕


僕には三つの日常的な疑問がある。

一つ目が六本木にある「竹虎」という、ほぼ毎週日曜日に通っているラーメン屋の混み具合だ。

僕の日曜日の昼前後は週課みたいなもので、11時にしぶしぶ起床、12時に六本木でミサに参列、その後近所の「竹虎」で昼食、と決まっている。そういうことなので、「竹虎」に着く時刻はほぼいつも13時15分頃になる。

この時刻は昼にしては遅いこともあり店は大抵空いているのだが、7〜8週間に一度、すぐに座れない時がある。それも前に4〜5組待っているという(通常からしたらの)大混雑なのだ。

なぜ日曜日13時15分の六本木の「竹虎」では混む時と混まない時があるのか、そして混む時にはなぜ極端にも大混雑なのか。この奇妙な現象に気付いて4年近く経つが、余りに不思議すぎて未だに自説さえも立てられないでいる。

二つ目の疑問は東京メトロ日比谷線についてである。

日比谷線は中目黒と北千住をつないでいる地下鉄であるが、他の鉄道との直通運転も実施しており、長い間、中目黒方面 では東急東横線に直通しており、北千住方面では東武伊勢崎線に直通していた。

それが2013年、東京メトロ副都心線が東急東横線との直通運転を開始したことをきっかけに変わった。東急東横線が別の線と直通することなったので日比谷線との直通運転が廃止されることは当然なのだが、不思議なのは、日比谷線の北千住方面での直通運転の変更だ。

2013年まで北千住方面の最遠は東武伊勢崎線にある東武動物公園駅であった。それが、中目黒での東急東横線直通廃止と同時に、北千住方面の最遠は南栗橋駅に変わったのだ。

南栗橋駅とはどのような駅なのか。調べてみると、東武動物公園駅より3駅先の、なんと東部伊勢崎線沿いではなく、東武日光線という別の線にある駅であることが分かった。

なぜ本来なら何の関係もない中目黒駅での東急東横線との直通廃止に伴い北千住方面での直通運転が見直されたのか。そしてなぜ、見直した結果が伊勢崎線沿いの延長ではなく別の東武日光線との直通なのか。そしてなぜ3駅だけの延長なのか。

未だに、日比谷線の南栗橋行きに乗る度にこの疑問が頭を横切る。

そして三つめの不思議が、なぜ僕は渋谷でスカウトされないのか、ということだ。

先日、妹を渋谷のハチ公前で待っていた時に改めてこのことを疑問に思った。その日は週末であったためか、多くのカメラマンとマイクを持った人間がウロチョロいて、適当な人に声をかけていた。「適当」より背も格も高い僕のところには当然いつかだれかが来るのだろうと待っていたのだが、どういうわけか、いつまでたっても誰も声をかけてこなかったので、これは場所が悪いのだろうと思いつき、より目に付きやすい場所に移動した。

すると数分後、クリップボードを手にした女性が僕に近づいてきた。待ってましたとばかりに自己紹介をしたくなる気持ちを抑えていたら、その女性、明らかに日本ではない国の教室で笑顔いっぱいの小学生数人が写っている写真を僕に見せた上で、「カンボジア児童への募金をお願いできませんか」と拙い日本語で聞いてきた。

なーんだ。カメラもない。マイクもない。インタビューもしない。渋谷でそんな人に付き合っていたら万一スカウトされる時に邪魔になる、と考え、金がないふりをしてその女性を追っ払った。

もっとも、大変おかしなことに、それでもスカウトはされなかったのだが。

A Lenten Reflection–To be More like Christ


You have heard that it was said, “Love your neighbor and hate your enemy.” But I tell you, love your enemies and pray for those who persecute you, that you may be children of your Father in heaven. He causes his sun to rise on the evil and the good, and sends rain on the righteous and the unrighteous. If you love those who love you, what reward will you get? Are not even the tax collectors doing that? And if you greet only your own people, what are you doing more than others? Do not even pagans do that?  Be perfect, therefore, as your heavenly Father is perfect–Matthew 5:43~47

I was deeply moved by this Lenten passage.  It epitomizes what I need to strive for in my journey of faith.

In one sense I have come pretty far in that journey, for I no longer find the having of faith to be that difficult.  To be sure, faith has never come easy and it probably never will, but if you ask me the pointed question “Do you believe in God and His son Jesus Christ?” the answer I would give is an unequivocal “Yes.”

But having faith and living it are two very different things.  If action speak louder than words, as the old cliché goes, then my proclamation of faith is drowned out by my everyday behavior.

Regarding this shortfall, I am very much self-aware.  Of all the challenges in my life, the living of faith is probably the one I find most difficult.

There are so many reasons this is so.

For one, I aspire to live a full life, filled with numerous things that occupy my time like friends, work, hobbies and curiosities.  I’m constantly stimulated and rarely find a moment of boredom, but I confess, faith is not what mostly occupies my mind, heart and soul.  I feel in touch with faith whenever I have moments to reflect, but those moments are few and far between. In the day in and day out, in the every moment of every hour, my faith takes a back seat.

My personality also doesn’t help.

I am passionately opinionated about everything, which also means that I can be highly judgmental. There is not a moment that goes by that I’m not judging a person to be good or bad or right or wrong, and cutting loose in my mind the people who fall into the latter category.  I am terrible at forgiveness, regarding which my take is “why is there a need to forgive the bad and the wrong?”

That attitude, of course, is entirely at odds with Christianity.  As Jesus taught in the Matthew passage above, what the followers of Christ are called upon to do is to forgive the unforgivable, as Jesus Himself exhibited when he forgave those who nailed Him to the cross.

I realize I fall woefully short of this standards set by Jesus, yet there is a part of me that has remained unapologetic.  I cannot help but ask: if God created every person in His image, then am I not in His image despite my inclinations to judge?

It is only recently that I’ve come to terms with the fact that I need to change this line of thinking.

For the last couple years, I’ve concluded every prayer with the request that Jesus remain with me always, realizing that my moments with Him are fleeting, but recently, I’ve been adding that I may live my life more like Him, in the recognition that I am ever imperfect.

This Lenten season, I have made a commitment to do my own part to bring those prayers to fruition, to at least make an effort to act the way that Christ would have acted.

That means I don’t judge, I just observe.

That means I don’t dismiss a person for his or her perceived shortcomings.

That means I treat every person, no matter how perceivably indecent, with dignity and respect.

That means I cherish every life and lament the loss of any.

That means I don’t get angry with perceived slights, against me or others.

That means I forgive even if the wrong is seemingly unforgivable.

And that means I become always mindful of how Christ would have acted, despite all that is going on in my life.

None of this will come easy, for they represent a fundamental change in the way I go about my life.

In fact, I’m very likely to fail.

But during Lent, I have made a commitment to try.  That may not be much, but I’d like to think that it is a major step forward in my every continuing journey of faith.

十五歳の僕への手紙


アンジェラ・アキの「手紙~拝啓 十五の君へ~」を聞いて思った。僕なら十五歳の自分にどんな手紙を書くだろう、と。

拝啓

この手紙を読んでいる君は、今どこで何をしているのだろう。

たぶん宿題に追われ、塾に通い、限られた残りの時間はテニスでもしているのだろう。

でも今の自分だから言えることがある。

十五の君がしなければいけないのは、学校や塾が中心の毎日を生きることだけではない、と。

もちろん、学校の勉強も重要だ。数年後に「踏襲」を「ろしゅう」と読んで恥をかかなくて済むように、今の君はもう少し国語の勉強をした方がいい。

それでも、少しは大人になった僕がまだまだ子供の君に伝えたいのは、人間、面白みが重要だ、ということ。

そして、面白みのある大人になれるように、今の君には好きなことを徹底してほしい。

実は君は既に恵まれている。同年代の友達と比べて君はだいぶ興味津々なのだ。そういう興味を徹底してみよう。

株が好きなのだから、成人になるのを待たずに貯金した小遣いすべてを株につぎこもう。

運動神経がないくせにスポーツが好きなのだから、スポーツをしなくても徹底できる方法を探ろう。

政治が好きなのだから、地元議員の事務所に寄って話を聞いてみよう。彼の仕事が面白いと思ったら、自分でやってみよう。君が被選挙権を得るのはたった3年後。

大人が「あそび」だと思うようなことでもいい。ドラクエが好きなのだから、シリーズ全作をクリアして、そのあとFFとテイルズを制覇して、3大RPGを徹底的に分析してみるのもいいかも。ストーリー性や登場人物の面白味が重要という面でRPGは映画のようだけど、ITも関連している。RPG制作の世界は奥が深そうで、いくらでも深掘りできそうだ。

学校や塾以外の事に大半の時間を費やし始めたら、両親は間違いなく反対するだろう。「少しぐらい勉強をしなさい」とかなんとか言いそうだ。でも、あの人たちの反対を押し切ってやりたいことを貫く強さも今の君には必要だ。

親というのは子供には常に安全の道を進めさせたがるもの。いい成績を取って、一流大学を卒業して、大企業に就職して、高級取りになる、というのが親の子供に対する「夢」だ。無事な人生を送るのも重要だろうけど、石橋も叩きすぎると崩壊する。橋を渡らなくては、向こう側にある面白い世界が見られない。

そう、ぼくが君にやってほしいのは、学校という小さな世界から抜け出した「挑戦」だ。

「挑戦」には失敗や挫折が必ず伴う。株の投資に失敗するかもしれない。政治には向いていないと気付くかもしれない。芸術的な才能もプログラムの能力もないことを悟るかもしれない。

でも、壁にぶつかることは悪いことではない。失敗したからこそ新しく見えてくることがある。成功は気持ちがいいかもしれないけど、教訓にはならない。

15歳の君は「失敗したら」なんて心配する年齢ではない。

苦労すればするほど為になる年齢だ。

良くも悪くも、楽しめる映画は記憶に残る映画


僕は今まで600~700本の映画を観たことがあるが、これだけ観てようやく気付いたことがある。

それは、ほとんどの映画は平凡、ということだ。

これは必ずしも悪いことではない。

当たり前のことだが、悪い映画を製作しようと思うプロはいない。映画の製作に携わっている誰しもが、良い映画を作ろう、楽しんでもらえる映画にしよう、という目標を持って頑張るので、ほとんどの映画は「平凡」の水準に達する。

反対に、映画を作るということは通常思われている以上に大変なので、作品が平凡のレベルを超えることはほとんどない。

だからこそ、「記憶に残る映画」とは良くも悪くも稀な体験である。

記憶に残る名作、いわゆる「傑作」とは、他人に勧める映画で、かつ何年経った後でも再度観たくなるような映画だと思っている。他人に対しては貴重な時間とお金を費やしてまで観ることを勧め、自身に関しては既に観ているのに更なる時間をそそごうと思える作品は、数年に1本の頻度でしか現れない。

どうして「傑作」がそこまで稀になるのかをよく示しているのが「64(ロクヨン)」だ。

横山秀夫の小説を原作とし、佐藤浩市が出演、瀬々敬久が監督したこの映画は、邦画が豊作だった昨年、僕の年間Top 5にランクインしたほど良くできていた映画だった。ただ、この映画の惜しかったのが、後篇の転機となる肝心なところで重要な場面が唐突に現れるという大きな編集の過ちを犯していたことだ。

この失敗は、前編・後編をわたる240分のうちたった数分間を占めるものであった。この一瞬を観て改めて感じたのは、映画製作とはなんと難しいのだろう、ということだ。

良い映画を観た人が口にする感想は大抵「さすが~監督とか」とか「~の演技が良かった」だが、映画を成功させるためには俳優や監督が優れているだけでは不十分だ。映画には脚本や音楽、セットや衣装、撮影や編集も欠かせない。これらすべてが優れて初めて「傑作」ができあがるが、それはまるで、空中に投げたバラバラのパズルが床に落ちた時にははまっているというくらいありえないことで、だからこそ僕は、傑作に巡り会うと魔法を体験しているような気分になる。

もちろん、傑作があればその正反対の駄作もあり、後者の鑑賞もそれなりに楽しめるものだ。何しろ駄作とは、映画製作に携わった人すべての「良い映画を作ろう」という思いと努力が水の泡となってしまった悲劇の産物なのだから。

昨年楽しめた駄作といえば「クリーピー 偽りの隣人」だろうか。これは「不作は最初の15分で決まる」という僕の持論を立証するような作品だった。全然怖くない場面で「これから怖いことが起こる」BGMが流れたあたりで「傑作」には遠く及ばない映画であることを理解した。もっとも、その程度の欠陥しかないのであれば「平凡な映画」で終わったのだが、この映画、話が進めば進むほど馬鹿らしい展開になり、救いようのない脚本を懸命に演じる哀れな香川照之を観ながら、これは見物だ、と楽しめてきた。

駄作を見ることを好む人は少ないかもしれないが、僕は平凡な映画を見るよりはずっとマシだと考えている。映画鑑賞とは結構高い娯楽だ。たった2時間程度のために2000円近く払うのだから、忘れてしまうような体験が実は一番もったいない。駄作の鑑賞は2000円で買った一生忘れられない体験と考えれば、駄作にもそれなりの価値を見いだせるのではないだろうか。

“Silence” (2016) is a Deeply Reflective Journey of Contemplation into Faith


9/10

MV5BMjY3OTk0NjA2NV5BMl5BanBnXkFtZTgwNTg3Mjc2MDI@._V1_UX182_CR0,0,182,268_AL_.jpg

It is 17th century Japan, a bad time and place to be a Christian.  The feudal government is committed to eradicating Christianity through the torture and killing of believers, convinced that the religion is unfit for the Japanese people.

In the Portuguese colony of Macau, the Jesuits receive news that Father Cristóvão Ferreira (Liam Neeson), who is living in Nagasaki, Japan, renounced his faith after being tortured. Finding this difficult to believe, Fathers Sebastião Rodrigues (Andrew Garfield of “The Amazing Superman” (2012)) and Francisco Garupe (Adam Driver) set out on a dangerous mission to find their mentor and uncover the truth.

Continue reading ‘“Silence” (2016) is a Deeply Reflective Journey of Contemplation into Faith’

教師にあらずんば「先生」にあらず


「先生」という敬称の使い方についてふと疑問に思ったことはないだろうか。誰も彼もが「先生」と呼ばれているこのご時世、一体「先生」と「さん」の境界がどこにあるのか、ということを。

僕は「先生」の使い方は二種類あると思っている。

ひとつ目が「教える人」に対して使う場合だ。

Continue reading ‘教師にあらずんば「先生」にあらず’


Enter your email address to follow this blog and receive notifications of new posts by email.

Top Rated

Categories

Archives

August 2017
M T W T F S S
« May    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

%d bloggers like this: